日記96.8.1〜12.31まで

1996/7/12に関西医科大学付属病院から熊本機能病院に転院。

やっとここまでの記録を整理出来るまでになりました。色々校正しているので原文とは多少違っています。

又、当時の記載のままに出来るだけ残してあるので、事実と多少異なる文章になっている部分もあるかと思います。

かなり長文ですが、敢えてまとめて掲載します。

なぜ、12.31までなのかは文章の最後に判明します。

 

日記96.8.1〜12.31まで

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`96 8/1(木)

木曜日は入浴日。やはり一週間ぶりの入浴はなかなか気分が良い。平成8年5月19日受傷してから約3ヶ月はベット上安静の予定。右手の握力も徐々に戻りつつある。やっと60度のベットアップで体幹を左右にずらすことができるようになってきた。右前腕尺側部の麻痺はやはり外傷性の一過性のものだろう。母は3月に父が他界してから僕のことといい休む暇も無い様子。リハビリが進めばやがて現場復帰を含めた生活のことを考えなければならない。が、今は考えるのは止めておこう。

`96 8/3(土)

土日はリハビリは無し。ゲームボーイにもいいかげん飽きてきた。と言うわけでDuoをとりだしてみたものの仕事用にシンプルにしてあったため、何とも味気ない中身。コンピュータの新規購入も考えなければ。こうちゃん、職場の同期等と連絡も取りたい。携帯でも買うか。間欠導尿になって数日経つが、膀胱の張っている徴候は全く無い。本日よりカマグ開始、やや便秘気味であったため。ここの売店には少年マガジンさえ置いていない。一人では情報の収集もままならない。テレビだけがリアルタイムで入ってくる情報。ここまで打ってduoのキータッチはキーストロークが浅く、やはりミスタッチが多い。改善の余地あり。金曜日の測定では右の握力17kg。やっと、左に追いつきつつある。そういえば、最近売店の巡回に出くわさない。どうもリハビリの時間と当たっている様。右踵の褥瘡も一皮剥けてきた様。

`96 8/5(月)

ここにきてから約1ヶ月が経とうとしている。未だ、車椅子での自力移動は許されていない。大阪脊損者協会の資料を読むと、予想以上に日本での脊損者の生活は悲惨らしい。僕自身は社会復帰の糸口はまだ可能性が残されている。そろそろ、ベットアップしている時間を少しずつ長くしていかなければならないか。早く車椅子移動ができるようになりたい。少しずつ、自分に色々なことができる可能性がわかってはきたが、ほんのちょっとのことが他人に頼らなければ出来ない自分を毎日思い知らされる。今後、まだ先のことだけど、どんな介護・福祉制度があり、活用できるのか調べる必要あり。生活の基盤がどのような形になるのかよく解らない。僕の状態は障害1級〜2級の状態らしい。障害者手帳の手続きはとったが、今更のように、社会福祉制度に対する無知を思い知らされる。一度法律的にどのようになっているのか整理する必要あり。多分、法律的な援助が最小限であっても僕自身の場合は自活は可能と思われる。約半年間のリハビリの後、湯布院の社会復帰のリハビリ施設に移って下さいとのこと。一年半ののち、障害者手帳を手にしてから社会復帰するのがベストか。本日は、だいぶとベットアップしてキーボードを叩いていても気にならない。理学療法士の言うには、ノーマルからスーパーノーマルの筋力の状態をめざすとのこと。握力が50Kgに戻るのはいつのことやら。

`96 8/12(月)

久しぶりに家族全員集合。もうすぐ、事故後約3ヶ月経つ。CTの結果次第で車椅子使用の許可がでるとのこと。そろそろ職場にも一度連絡が必要。大阪の知人にも連絡しなければ。本日より自己導尿開始。本日のみ見学(看護婦さんがやってくれた)。明日より本当に自分で導尿が開始。当分は介助が絶対必要。ゲームボーイポケットになりかなり視界が良好になった。テレビ代も馬鹿にならない。貰った5千円分一月も経たない間になくなってしまった。とは言っても、その間にオリンピックがあったためしょうがないか。脊損の本も大概読破したが、細かいリハビリのテクニックについては書かれていなかった。やっと、落ちついてきたと言うところか。

`96 8/15

婦長より来月6病棟から4病棟に移ってくれとのこと。

`96 8/17(土)

昨日は自費で購入した褥瘡予防のマットごと他人に貸し出されてしまい、枕で代用してリハビリに臨むことになった。月曜日には帰ってくるのだろうか。最近、導尿の時間がルーズになりつつある。月曜日にCT撮影。こんだけ体中にいろんなものが入っていてうまく撮れるのだろうか。来週以降、車椅子の許可がおりそう。身体が動かないとちょっとした物が取れない。あと5センチあれば手が届く物が届かない。そんな身体になってしまったということを、些細なことで思い知らされる。ちょっとした工夫こつで改善される。そんな積み重ねが必要なのだろう。雑誌はまだ届かない。外界から隔離された状態が続いている。電話が欲しい。色々連絡がとりたい。とにかく外界の情報が足りない。土日はリハビリが無い分だけ比較的時間に余裕がある。朝4時に導尿、6時に検温、8時に食事、洗面、9時に導尿、10時には200ccの飲水、12時に食事、13時に導尿、その後、約2時間のリハビリ、帰室後200ccの飲水、17時には導尿、18時に食事、21時導尿、22時消灯眠剤を服用し就寝。月水金週三回の排便レシカルボン坐薬(テルミン)にて排便は良好。木曜日は入浴、二日に一回の清拭、手間暇のかかる身体になったものだ。導尿は介助あれば自分で可能に。ズボンの上げ下ろしが出来ない。ふと、あと自分に残された寿命はどれくらいなのか、気になった。勿論、事故が起きる前より短くはなっただろう。十年、二十年、まあ心配してもしょうがないか。社会復帰がどのような形になるのか現時点では予想もつかない。今は閉鎖された空間でのみ存在が許されている。これから少しづつ解放されてくるのだろう。そうでなければ息が詰まってしまう。さて、今日は何をして一日を過ごそうか。

`96 8/21(水)

昨日、CT撮影。こちらにきてから初めての撮影。主治医も椎体の粉砕骨折を初めて実感として理解してくれた様子。昨日は、両下肢特に右下肢の痺れ感が夜間強く感じられた。別に痛いわけでもなく、睡眠の邪魔になるわけでもないが、一寸気になる。ここはリハビリの負荷はかなり慎重になっている様子。最近、やっと首がすわってきて座位の時間がかなり取れるようになってきた。兄の言うには”4ヶ月の赤ちゃんやな”とのこと。ノートパソコンは5300CSを買うつもり。早く携帯電話が欲しい。最近、音楽に興味の無い自分に気づく。唯一の楽しみは、ゲームボーイポケットとテレビ。テレビも以外と金額がかさばるので付けっぱなしというわけにもいかない。ONI4がイージーモードで終了。ラストバイブル1、ONI5を開始。兄がポケット用のバッテリーパックを送ってくれた。感謝。電池代も馬鹿にならない。

`96 8/22(木)

初めてリハビリにて坐位をとった。7〜8分を約数回。両上肢の力がやはり、まだ足りない。側臥位にて上体を支えきれない。Dr曰く、触れて筋肥大が判るくらいまで鍛えるとのこと。”まだまだですね。”とのお言葉。Drより画像診断の結果を説明される。化骨は順調だが、リハビリでは積極的には負荷をかけないでいくとのこと。このペースだとリハビリは半年で終わらないと思う。来年の七夕を何処で過ごすか、それが、問題だ。整理のおかげで、6時台のテレビが観れない。ニュースステイションばかり見ているような気がする。時々、やはり両下肢特に右下肢の痺れ感が体位変換後等に時々くる。ゲームボーイ以外にもっと有効な時間の過ごし方を考えなければ。コンピューターの購入を急ごう。最近、夜更かしが多くなってきた。昼間少し眠い。悪い習慣だ。直さねば。早朝の導尿が辛い。

`96 8/23(金)

リハビリは午前にて終了。新しいマシンが必要。2時間近く坐位でいると一寸疲れた。ベットで横になっているのに慣れてしまった様。右上肢の力はかなりましになってきたように感じる。痺れ感は殆ど気にならない。明日、明後日はどうやって過ごそうか。

`96 8/27(火)

ベット上で月曜日の測定では右21.5kg左24kg。約1割up。下肢の痺れ感が午後よりずっと続いている。回診後初めて寝返りの練習開始。腕力の無さをつくづく感じた。そろそろ、ベット上での自主リハビリを本格的にやらねば。鉄アレイの購入でも考えるか。Duo の良い所は寝たままでもこのように入力可能な点。携帯のカタログはまだ来ない。

`96.8.28(水)

8.30(金)より4階8病棟に移ると婦長より。母は顔を見せず。忙しいのであろう。

`96.9.3(火)

8.30より、4階に移動。窓から外の景色が見えるようになった。入浴は月曜日に。母は、月曜日より顔を出すようになった。導尿時間が、6,10,13,17,21,24時の5回になった。飲水は、6',200 8',300 10',200 12',300 15',200 18',300ccに変更。今週より、プッシュアップを坐位にて恐る恐る開始する。便通は坐薬にてコントロール良好。未だ、左上腕に負荷の許可はでない。弟は松山に戻ったとのこと。

`96.9.5(木)

リハビリにて自力走行可能な車椅子に乗り換え。体育館を4周。まだまだ腕力が足らない。昨晩、丁度、事故の時期に合わせて爪の変形が両指に同様に認められるのに気づいた。Last bible をやっとクリアー。Last Bible2がやっとできる。これが終わるとゲームボーイのソフトが無くなる。母がしきりに「何か食べたいものないか?」ときくが、あまり食に対して関心がない。頼んだ物が早く届く事を祈ろう。

`96.911(水)

介助無しでプッシュアップで少し腰が浮くように。売店までの坂が自分で登れる。外はだいぶ涼しくなってきた。そろそろ、手紙を書かなければ。母は、未だに僕の現状が実感として理解出来ない様子。「どんな感じ?」と聞くが首を傾げて「わからんなあ」といった感じ。散髪を2ヶ月ぶりにした。ここの理髪店は女性3人。無難なCUTに落ちついた。リハビリで明らかに腰椎レベルの脊損の患者を何人か見かける。自分もあれぐらい出来るようになるのに後どれくらいかかるのだろうか。時折、夢を見る。何がストレスになっているかは自分でも良く判っている。慣れるよりしょうがない。

`96.9.15(日)敬老の日

21時頃、TELあり。大学の同窓から。11月にバレー部の後輩と結婚式を挙げるので招待状送ってくれるとのこと。果たして大阪まで行くことが出来るか。看護婦に聞くと一度聞いてみてくれるとのこと。同窓は「やる気さえあれば現場に復帰出来るはず。」と言ってくれた。どうも、私の事故の状態は正しく伝わっていなかった様で、それで見舞いに来れなかった人がかなりいたらしい。昨日弟よりDuo2300C到着。今、それで入力中。なかなか軽快。1ギガあるので手あたり次第にインストールしている。トラックパットもなかなか使い勝手が良い。当分は退屈せずにすみそう。

1996年 9月 16日 月曜日

Jeditにて入力している。日付入力可、ジャンプ機能も充実している。なかなか使い勝手良い。

1996年 9月 18日 水曜日

アクションゲームはいやだったのでSamuraiMech IIをすることに。テレビも見ずにやっていたら、看護婦が勉強していると勘違いしていた。本日より母は徳島へ。長引くかもしれないとのこと。大阪の11月の結婚式の件は介助さえあれば可能とのこと。行くとなると、色々手配する必要あり。やはり、TFT液晶は画面が綺麗。満足。ハードディスクのレスポンスもなかなかで、入力にストレスを全く感じない。車椅子ごと量ったら体重が62kgだった。減量するつもりないのになってしまった。肺活量は1800mlで1秒率は正常。月一回のペースでCT,X-P撮るとのこと。

1996年 9月 19日 木曜日

夢を見た。「アジアのどこかの独立軍?広場で別の独立軍?を待っている。装甲車で出迎え。危険を感じた僕は、(独立軍の一人)装甲車に飛び乗り港に向かう。船より最初に出てきたのは敵?自動小銃を私は連射。敵は?倒れる。戦闘はそれだけで終了。船より、友軍?を出迎える。船のタラップ?船上?。背の低い小汚い美人でもないアジア系の娘に出迎えのフレンチキスを口にする。娘は私にディープキスを仕返し。娘を背負って、坂を登る?降る?っている私。消防署?で呼び止められ、中に入る。働かないか?と誘われる。いかにも偉そうな人に薬?の使用量を聞かれ、口答えする娘。言ってる事はむちゃくちゃだが。OKがでる。あたりを見回すと阪大医学部教授、と書かれた看板。びっくりする。店内。雑貨屋?。米軍兵士?がいろんな物を食べたり買ったりしている。何かを食べて文句?かったるい?刺激が足らない?とわめいている。食べたのはフカヒレ?スッポン?の饅頭?。そこで私は米軍兵士?に米袋程の大きさのアルミパックの袋を薦める。兵士はそれを肩に担ぎ、袋を開け、中身を取り出す。ミニパック(前夜ミニパックされたおつまみを全部たいらげた。)のニンニクの顆粒の袋を一つ出し、口に入れる。顔をしかめ、何か言っているが刺激があって悪くないとのこと。兵士二人の間に入って一緒に歩いている私。兵士はもう一人の兵士に薦める。もう一人の兵士もパックを開け口にするが、顔をしかめ、もうけっこうと言う顔をする。歓楽街。水着、セミヌードの女性がキャバレーのようにたくさん。あちらこちらに。私は向こう?を見上げ、グランシャトーのようなビルを薦める。」そこで目が覚める。丁度10:30の導尿の時間であった。そういえば、関西医大の救命で呼吸器につながれ、右腕は痺れて力が入らず、左腕はギブスに固定され、身動きも声も出せなかった頃、よく夢を見た。鎮静剤?のせいかうつらうつらしていることが多かった気がする。プレッシャーサポートをかけながら、努力呼吸に精一杯であったあの頃。何故か傾向として、戦争の話、切り物師?(料理をお祝いとして芸術のように魅せる流れの料理人??)、戦後の成長期、の話が多かった。鳴門で父の死後親類が新興宗教に走っていたり、ベトナム?朝鮮?戦争中の話、師走の31日小鍋をつつきながら突然話が始まったり、神戸で暴走族の話になったり、とにかく突然始まり突然終わる。まるで、あっちの世界、こっちの世界を行ったり来たりしているような感じ。今となってはなんともうまく説明のしようがない。

1996年 9月 21日 土曜日

昨日の晩、Duo2300Cに出来るだけゲームを入れた。これでハードディスクの半分近くを占めた。テレビも見ずに夜遅くまでいじっていたら看護婦に呆れられてしまった。今日から3連休。何をして過ごそうか。

1996年 9月 25日 水曜日

9/23三連休の最終日。SamuraiMech IIのエンディングも見たし、Tower1.2J も五つ星で大聖堂も確認。根を詰めてしていたので、一寸休憩。昼食後、1時の導尿。夕食後より、悪寒。8時過ぎ、調子悪し。案の定、夜には大量の発汗と、38度を越える発熱。朝方まで極端な濃縮尿であったため、尿路感染が疑われた。呼吸器症状無し。ボルタレン坐薬50mgにて解熱。朝食時ベットアップしたら、低血圧出現。目の前が真っ暗に。仕方なく臥位のまま食事。自己導尿も出来なくなり、看護婦に頼む。導尿チューブを看護婦が紛失してしまい、新しいのが来るまで自己導尿が不可能になった。9/24は終日37度台の発熱が続いた。何もする気になれない。リハビリも出来ず、入浴も不可。昼よりペントシリン開始。昼食は殆どとれなかった。夕食は何とか口にすることが出来た。9/25朝。平熱になり、気分も上々。

1996年 9月 26日 木曜日

昨日、夕より発熱あり。夜間何度かうなされる。夜に、カップうどんを食べさせてもらった。夕食は味が判らずお茶で無理矢理流し込んだが、うどんの味は判った。26日朝。平熱になる。問題は、夕方以降。尿量はやはり少な目。今朝は朝食を自分で採ることができた。パンであったせいかもしれないが。夕食は自分で採ることが出来た。気分もなかなか。体温も平熱。売店まで連れていってもらい、雑誌、本を何冊か、ついでにマジックハンドも購入。カップヤキソバを買おうとしたら、看護婦に止められてしまった。今日の調子だと明日以降のリハビリはなんとか出来そう。母は明日こちらに来るとのこと。

1996年 9月 29日 日曜日0:28 AM

27,28と夜は眠れず。リハビリも出来ず。母はやってきた。食欲はあまりない。27日の夜飲んだベンザリン、ルジオミールのせいか28日は終日うとうとしていた。母が寿司を買ってきてくれた。かなり味わって食べることが出来た。白血球6000台まで下がったとのこと。抗生剤も夜にて一応終了。28日。弟より頼んだ本が届いた。何故か突然、院長の回診。「手記を書け」と。暇だし、やってみようかなと。クラリスワークスのアウトラインを使い、とりあえずトライしてみることにする。

1996年 9月 30日 月曜日

昨日、昼過ぎよりこうちゃん及び知人がわざわざ大阪から来てくれた。3時間程いてくれた。久しぶりにいろんな話が出来た。昨日の夜こちらに着いたらしく、土産と称してくれた物の中に明らかに酒のつまみの残りが混じっていた。本日、2週間ぶりに入浴。なかなか気分が良かった。リハビリも問題なく、今日はいい一日。ただ、食事はまだあまり取れない。事故前の職場の秘書さんより手紙で連絡あり。職員録が12月にでるので住所を知らせて欲しいとのこと。でも、今の私の住所は一体何処になるのだろうか。

1996年 10月 2日 水曜日

参った。Comniftyその他大量の通信関係のツールを落としたのはいいが、肝心のExpress modemのCTBに対応してない。さっそく、朝から弟にTELし、Jterm3.0その他Nifty serve関係のソフト書籍を至急送る様要請。

1996年 10月 2日 水曜日11:48:36 PM

兄と弟からTEL。今日は珍しく家族全員と話したことになる。下半身麻痺と言うことは勿論、いちもつも役に立たない。Hな映像、画像を見てもちっとも昂揚感がない。といっても、性欲は無くなった訳ではない。ちゃんと一人前にある。ただし、皮膚感覚が有るのは、頭、両上肢に限られるので見て、触る、という行為がSEX代わりになる。なんか、痴漢の気分が解ってしまうような気がする。

1996年 10月 3日 木曜日8:22:52 AM

滝野澤直子「でも やっぱり歩きたい」を読み始めた。頚椎損傷の話。読み始めて、急性期のベットでしきりに「痛い、痒い、etc,,,」その他不安焦り等々の状態を書き連ねている。その点、私はだいぶと事情が違った。まず、最初に意識が戻った(逆行性健忘のお陰で意識が戻るまでの記憶が全く無い。)時点で、医者から、病状の説明を大体された。殆ど、包み隠さず。その時点で、胸髄損傷のこと、5日間意識が無かったこと、はっきり言って殆ど死にかけていたこと。等、大体理解した。一般的には不思議なことだが、そうパニックもショックも無かった。「あっ、そう。」まさにそんな感じだった。その後、病状が悪化し、再挿管、気管切開した後は呼吸するのと生きるので精一杯でごちゃごちゃ考えている余裕が無かった。だから、本当の意味で現状を認識し、考える様になったのは呼吸器が外れる当てがついてきた頃になってからだった。それまでに大体事故後1ヶ月以上過ぎていた。精神的に一番不安定であったのもやはりその時期にあたる。その前はうまく呼吸するので精一杯、鎮痛剤、鎮静剤漬けだったのでまともな意識状態では無かった。大部屋に移る頃には面会もどっと増えしきりに今後の事を心配してくれる人が増えた。車椅子で職場復帰も可能、とは言ってくれるものの、何処まで回復するかで決まることなので、現場復帰はあまり期待しなかった。今でもそう。ただ、どんな形にせよ、職に就けるぐらい回復可能ことだけは十分理解した。とりあえずはそれで十分。最初不安だったのは右前腕尺側部の痺れ感、握力の極端な低下、であったがすぐ握力も回復しだしたし、前腕の尺側部の皮膚感覚の麻痺はあるものの手指の動作には支障がないこともすぐに判明。とりあえず両手は十分動く。その一点だけで「出来ることは沢山ある。」という安心感があった。消化管のダメージは無く、食事は問題ない。排便排尿はコントロール可能。どうにでもなる。あとは、車椅子の乗り降りさえ出来れば介助を最小限にして自活可能。そこまで理解できた。兄が事故後直ぐに脊髄損傷の本を山ほど買ってベットサイドに置いていってくれた。お陰で大体の知識は直ぐに頭に入ったので、パニックもなにも無かった。ただ、後に「まいった、どうしよう。」と思ったのは、以前の職場復帰はとても制限を受けるため困難だということ。以前の職場以外ならいろんな手があることは十分判ったのだが、じゃあ何をすればいいのか全くビジョンが見えてこない。これは困った。IBMよりB5ファイルサイズのMACがでれば即買うのに。現行MACの中で最小最軽量のDUOでさえ2.2kg A4ファイルサイズ。ベットに横になって片手でキーボードを打つにはまだ重い、大きい。

1996年 10月 3日 木曜日0:30:56 PM

プリンタをつないでプリントアウト。以前の職場に手紙を出す。モデムポートを外部モデムに切り替えてやっとプリンタを認識してくれた。

1996年 10月 3日 木曜日10:56:52 PM

笑う。思いっきり笑うと、涙が出てくる。押さえていた、抑制していた感情が溢れ出してしまう。だから、心から笑うのが恐い。弟は早速頼んだ物を送ってくれたらしい。今週中には着くだろう。結婚式の招待状が届いた。大阪駅のすぐそばだ。母は、朝一番の飛行機で日帰りが出来ないかという。式だけ出るなら出来ないこともないが、いろんな人と話す時間が欲しい。出来れば一泊したい。21 時の導尿中にTEL が鳴る。でれなかったら切れてしまった。誰からだろう。体位変換中に看護婦の腰をつかんだら、束ねた髪を掴まれると痛いという。肩胛骨に指がかかって掴まれても痛いらしい。今日は、左下肢の痙性が夕食後よりずっと続いている。いつもよりかなり強いような気がするがどうだろう。パソコン通信が出来るようになったら、何から始めようか?母は長電話をしきりに気にするが、電話代が月に1万、2万かかったところで今の私にはほんのささやかな楽しみでしかない。車で観光の話が出た。でも、今の私が必要としているものは、今の母には絶対に僕に与えられない。僕は母を責めない、そのつもりもない。責めてもなんにもならない。だってしきりに「疲れた、大変。」という人に何を言えば大丈夫なのか僕には判別がつかない。本当は誰かに八つ当たりできれば精神衛生上どんなに楽か。メディカルスタッフにぶつけるわけにもいかない。だから誰にも言わない、言えない。まだ、僕は耐えられる。まだ、大丈夫だ。

1996年 10月 4日 金曜日3:37 PM

「でも やっぱり歩きたい」を昨日の晩読み終えた。結局、彼氏と別れて故郷の母に引き取られる話。作者が看護婦のため、看護婦に対する恨み辛みが延々続く。「ケイソン」と「キョウソン」との違いが大きく現れていると思う。じゃ、僕が医者に恨み辛みがあるかというと何にも無い。関西医大に居たときに医者のやることは終わっている。後は、理学療法士,作業療法士、看護婦のやること。何よりも大きな違いは、両腕が自由に動くため、ベットサイドテーブルの上なら、自分の自由に出来る。いちいち、看護婦を呼ばなくても良い。食事、読書、テレビ、エアコンのリモコン操作、手紙を出したり、コンピューターの操作、電話、リンゴの皮も剥けるし、自己導尿、とても緩い傾斜を登り降りしての売店までの車椅子、車椅子の乗り降りが出来るようになれば、車の運転も出来る、福祉の介助で、自活も可能、何よりも、どんな形にしろ、社会復帰出来る可能性があること、これが大きな違いだと思う。作者は、「何もできない。」ことに常に悩まされている。完全看護のため、母は僕の看護、リハビリにタッチしていない。リハビリが順調にいけば、家族の支えが無くても生きていける。これも大きな違い。勿論、家族や友人その他多くの人の支えが無ければ生きていけない身体なのだが。極端な言い方をすれば、僕一人ががんばっていればどんどん状況が変わるということが判っていること。「何か出来る。」ことが判っていること。弟からの荷物が来ないか期待して待っている。が、そろそろタイムオーバー。明日に期待。

1996年 10月 5日 土曜日7:39 AM

夢を見た。おばちゃん、親父がいる。法事?なんだろう。出かける準備。お土産?か何かの準備は?とかなんとか聞かれている。何処からか出てくるお土産?家の中で土産?を風呂敷に包んでもらう。外では親父が風呂敷を広げて待っていて、どうして自分に包ませなかったのか、ご不満な様子。外に出ると、おばちゃんが戻ってきて、「なんて態度の悪い子だろう。」みたいな雰囲気で、親父の家族?になにがしかいくらか渡している。別に悪びれもせず、平然としている私。そこで目が醒めた。「6時の導尿の時間です。」昨日の晩は2時くらいにかーっときてルジオミール2錠飲んだ。二日続けての事。昼間寝過ぎかな?

1996年 10月 5日 土曜日8:04 PM

近くの公園まで散歩に。判ってはいたはずだが、一寸した凸凹や坂がどんなに車椅子の走行に影響するかを身をもって再認識させられる。真っ直ぐ進むのにこんなに体力を必要とするとは。車とすれ違うのに恐怖を感じる。車の方も車椅子をかなり意識しているようで、一旦停止したり、待ってくれてたりする。狭い歩道もなかなか恐いということがよく判った。溝のセメントのパネルが走行の邪魔をする。どちらかというと絶えず車道側に流れそうになる。歩道の段から車道に倒れこんだら、いっかんの終わり。という感じ。坂も一旦加速しだしたら止められない。砂利、砂、雨、等あれば真っ直ぐ下ることさえ難しい。タイヤが滑る。水路の金網は前輪がはまってしまう。介助無しで外に出るには勇気を必要とする。

1996年 10月 6日 日曜日10:05 PM

近くの本屋まで行って来た。が、あまり良い本が無かった。朝、昼とご飯が喉を通らなかった。夕食は問題無かった。床のワックスがけで部屋を一時追い出された。一日があっと言う間に終わっていく。

1996年 10月 8日 火曜日9:35 PM

昨日、弟より通信関係のソフト書籍が着いたので、昨日の晩から朝にかけて、Jterm3.0,Nifty Maneger1.11にて散々、設定をいじくり返したが、ただの一度も何処にもアクセス出来なかった。初期化は問題ないようだ。0発信まではOKなのだが、回線がつながらない。どうもパルス信号のスピードがあってないように見えるのだが、ExpressModem にはパルス信号のスピード設定が無い。早速、弟にTELして、電池駆動のコンパクト外部モデムを頼む。これでつながらなかったらパソコン通信は諦めるしかない。

1996年 10月 9日 水曜日9:45 AM

朝から看護婦がやることなすことちぐはぐな事ばかりしている。導尿の時間はむちゃくちゃだし、「浣腸しましょう。」と言って、坐薬を入れようとするし、排便の日を間違えているし 。今日は気分が良い。ここ二日は、ヘッドアップ時に低血圧症状が出ていたが、今日は無い。導尿もスムーズ。食事は、パンだったこともあり、まあまあ。昨日の昼間は暖房が必要だったのに、夜より又冷房に戻った。

1996年 10月 9日 水曜日10:26 AM

絵を掛けるレールを取り付けに来た。カーテンレールみたいなのを、電動ドライバーで4〜5本天井の角にネジ止めして終了。ものの数分も掛からなかった。さて、どんな絵が掛けられるのだろうか。浣腸で排便も済んだし、リハビリが出来れば今日は合格。付箋がいる。売店にあったと思うが。

1996年 10月 10日 木曜日11:36 PM

体育の日。リハビリも無いので、ホームセンターサンコーまでお出かけ。前回の本屋よりは短い距離でたどり着いた。文具を少々買った。こうやって少しづつ暮らしやすい環境を整えていくのだろう。そういえばマジックハンドを買ったはいいが、殆ど使っていない。問題はベットからマジックハンドで届く範囲に物が無いということであった。弟からモデムが届くのを待っている。でないとせっかく送ってもらった本がなんの役にも立たない。今度外出するときには時計が必要。病院に戻ると、5時の導尿の時間を過ぎていた。まだまだ車椅子をこぎ続けるスタミナが無い。もう少し車椅子に乗っている時間を意識的に増やしていかないと。

1996年 10月 12日 土曜日11:57 AM

昨晩、クラリスワークスにてTEL一覧を作成。NewNOTEPAD「にて入ってみたいフォーラムをメモ。当分、「覚え書き」に何でも書くことにする。こうやってみると自分の持っているデータのなんと少ないことか。今後はどんどん増やしていこう。髭をのびるがままにしていたら、ある看護婦に男の髭がのびているのが我慢できないと、無理矢理剃らされてしまった、残念。

1996年 10月 12日 土曜日9:57 PM

弟よりモデムが届いた。早速、オンラインサインアップを試みる。とにかく、オート設定ではうんともすんとも言ってくれず、初期化のコマンドを全部マニュアルで設定し直した。PBX回線のためダイアル設定も全部マニュアル。でもお陰でJterm3.0でROAD2につながった。オンラインサインアップも無事済んだ。後で、ROAD4もつながった。これで、正式IDがくればパソコン通信が楽しめる。

1996年 10月 14日 月曜日8:57 PM

初期化の設定が理解できてきた。で、ComNiftyにてアクセスできるようになった。これで、Nifty関係の通信ソフトが全部使える。TELしANAにて11/9,11/10の飛行機の予約をする。ホテルにTELし、福祉タクシーの予約を頼む。何でも、関西空港が出来た時に、各タクシー会社に1台行政指導かなにかで福祉タクシーが導入されたとのこと。熊本の方は病院に待機しているタクシーに聞いて福祉タクシーの予約が済んだ。これで旅行の予約は終了。後は4日以内に母にチケットを取りにいってもらうのみ。

1996年 10月 16日 水曜日9:15 AM

ベット上の筋肉トレーニングと柔軟を行う事とする。ダンベルを使った上肢筋の強化運動、1日3回の食後の前屈リハビリ後の車椅子運動の追加。ベットの手すりを使用した寝返り訓練の為の引きつけ運動。昨日、Drが「一人で大阪に行くのはどうか?」と心配してくれたが、弟が出迎えてくれることを知って納得してもらった。今日は不在者投票の日。体力研究所の2階で行うとのこと。比例代表はいいのだが、小選挙区の立候補者が判らない。誰か教えてくれるのかな?最近夜更かしが過ぎるので、何とか12時の導尿後就寝。6時の導尿時に起床することにする。いろんなツールを取り込んだお陰で、Duo2300CはDuo230に比べて格段に使いやすくなった。

1996年 10月 16日 水曜日0:52 PM

午前中に不在者投票。やはり小選挙区の立候補者が判らず、選管に調べてもらった。よって無事終了。体重測定。1kg程増えた。大して間食など採っていないのに。坐位の時間を出来るだけ長くしよう。通信も可能になりコンピューター環境も大夫と落ちつきつつある。弟に出来るだけ新しいカセットテープを送ってもらおう。テレビもいい加減飽きた。それにTV代も馬鹿にならない。母が熊本日々新聞の一週間のテレビ覧を持ってきてくれるのでTVガイドも買う必要が無くなった。新刊を買わなければ大してお金がかからない筈だ。後は電話代だけ。最近やっと坐位でいることに苦痛をあまり感じなくなった。車椅子をこぐのもだいぶ楽になってきた。ただまだ持久力が無い。スタミナを何とかしてつけなければ。

1996年 10月 16日 水曜日11:26 PM

理学療法でプッシュアップで身体を起こす訓練が始まった。上腕三頭筋、広背筋の力不足を改めて思い知る。作業療法では足を引き上げる訓練が左だけだったのが両足になった。ここでも、柔軟が足りないのを思い知る。23時頃、同僚よりTEL。携帯の留守番サービスに伝言を月曜日に入れていたのだが、さっきやっと聞いてくれたらしい。勿論、結婚式には出る予定とのこと。パソコン通信を始めた事を伝えると、電子メールが可能になることに気づいてくれた。今日もリハビリ後、鶴を一羽折った。

1996年 10月 17日 木曜日11:05 AM

早く正式なIDが欲しい。電話線一本で世界が広がるのだから。

1996年 10月 18日 金曜日7:59 PM

コードレス電話もあるし、冷蔵庫も置いてくれる予定のようだし、壁に絵?も掛けてくれるようだし、ここは大部屋のテレビはスピーカーの音は切られているのだが、個室はちゃんと音が出るようにしてくれた。お陰で自由に夜更かし出来るし、テレビも夜遅くまで見ることが出来る。作業療法でやっとベットに足をのせることが出来るようになった。まずはベット移動の第一歩。今日もちょこちょこといろんなファイルを読み込んでDuoのパワーアップをはかる。こんだけ色々入るとなんだか楽しい。

1996年 10月 20日 日曜日0:04 AM

本屋まで行った。9千円近く本を買ったら母に文句を言われた。要するに単行本が高かったのだ。もう単行本を買うのを止めよう。文庫本に絞ることにする。古本屋に行く。入口はややきついがスロープが付いていて入ることは出来たが、通路が狭く通れず。結局何も買わずに出る。19日23:47頃、痙性がえらく強いと思ったら地震だった。2回、震度3程度の揺れがあった。これくらいの地震はしょっちゅうなのか、病棟はとりたててどうということもないようだ。Niftyから正式なIDが届いた。10/24より有効。これでパソコン通信三昧。

1996年 10月 20日 日曜日9:06 AM

8:30導尿の為に起こされる。「あら、食事まだですか?」と言う。テーブルには冷え切った朝食が。僕は横に向いたままだった。と言うことは、食事が出来る体勢にはなってなかったってこと。ここでは食事を配る人は配るだけ。患者がどういう状態かは無関心な様子。朝になって、冷たくなっていてもほっとかれるんだろうなあ。ここではあらゆる事がとてもアバウトで直感的に行われる。看護婦コールの調子が悪く、看護婦ステーション側の声が聞こえなくなった時、看護婦は「おかしいわねえ。」と言うだけで、修理をしようとか、交換しようとか、誰も言わない。結局、交換したのは3日後。導尿の時、ズボンをおろさずヘッドアップして、「あら、やっぱり寝ないとズボンがおりないわ。」と言ってヘッドダウンすることはしばしば。車椅子の乗り降りも、背面を倒す時は、必ずといっていいほど、僕の体重を忘れて、何の気無しにストッパーをはずし、支えきれずに慌てる。倒す前に引っ張れば、簡単な事なのに、身体を倒してから、「あら、背中にタオルが無いわ。」と言って僕の身体を数人がかりで持ち上げてる。夜中の導尿の時、必ず暗闇の中で導尿させようとして僕が「ライトをお願い。」と言うはめになる。多分、大部屋ではベットのスポットライトしか付けないのだろう。今からする動作がどういう結果になるか何にも考えずにまずやってから必ず不都合に気づく。する前に何か問題があるか確認する習慣が無い。「同じ事を何回も聞かれたりして大変でしょう。」と看護婦もアバウトさには気づいている様子。細かい事は、患者サイドの問題ということか。脳梗塞等で身体の自由が利かない人(僕もそうだが)、言葉が自由にしゃべれない人はどうしているのだろう。看護婦が気づくまで放ったらかしなのかな?昨日の地震は震度4だったとのこと。

1996年 10月 20日 日曜日8:17 PM

TUTAYAまで行った。明倫堂に比べて本の品揃えがむちゃくちゃと言う感じ。大して欲しい本も無く来年の手帳を買った。今日は衆議院選挙の日。自民党は過半数は難しい様子。大分、外も寒くなってきた。母は当分外出は控えようと言う。NiftyのIDも届いた事だし、当分はパソコン通信で楽しもう。昨日の地震は日向灘沖が震源地らしい。九州全土が震度3〜4程度あったらしい。

1996年 10月 22日 火曜日7:47 PM

身体障害者診断書・意見書をとりにいく。対応してくれたのは、僕と同様車椅子の人だった。これを縦4cm横3cmの写真1枚を添えて大阪府旭区区役所に送って、障害者手帳の交付を受けることになる。手帳が交付されると、色々な優遇処置がうけられる。車イスの申請が可能になる。

1996年 10月 26日 土曜日8:50 AM

弟より返事あり。これでComniftyにてオートパイロットでメールの送受信可能になった。看護婦に「寝なさい。」と叱られ、Duoを取り上げられてしまった。森永Hi-SOFTの包み紙を約4等分しミニミニ折り鶴を制作中だが生産性がすこぶる悪い。病院の売店でいい入れ物がないか物色。明治のベビーチョコ?のスチロールケースが丁度良さそうだったので購入。

1996年 10月 28日 月曜日11:24 PM

リハビリは右8kg左9kgの負荷。作業療法では、やっと自分の両足がベットののせられるようになった。試しに靴を脱いでみたら、成功。履く方は一寸介助が必要だったがこれも成功。左腕の負荷の許可がでれば、ベットへの移動訓練が可能になる。昨日、今日と色々ROAD4,ROAD2でアクセス。オートパイロットも何とかさまになってきた。母は4kgの鉄アレイを持ってきた。3kgは卒業。リハビリ後車イスのままで部屋の整頓。マジックハンドがここで役にたった。もう一つ三段ボックスがあれば快適になると思う。昼の導尿より看護婦が来ないので自分でトライ。ズボンを下ろさなくとも可能だった。17時の導尿も誰も来ないので、車イスのまま決行。何とかこなした。導尿には来なかったくせにちゃっかり夕より「もう自分でできますね。」と言う。うーん?さてもうすぐ24時の導尿。うまくできるかな?

1996年 10月 30日 水曜日9:09 PM

昨日、リハビリ後に車椅子からベットに移ろうと試みたら見事に失敗。両足をベットに乗せるとこまではうまくいったが、脊損マットが柔らかすぎて車椅子とベットの隙間に尻がはまりこんでしまった。やむなく床に軟着陸。今日のリハビリでは靴の脱ぎ履き可能に。後はベットに移るプッシュアップの許可が主治医からでるを待つのみ。車椅子をこぐ力が目に見えて強くなったのを感じる。

1996年 10月 31日 木曜日11:52 PM

母が、散々探し回って、脱ぎ履きが楽な革靴を特注で買ってきてくれた。色は黒。甲のマジックテープの所がとても大きく広がり、履きやすい。ハーフコート(色:ベージュ)も買ってきた。母曰く、「事故の時に着ていた色。」とのこと。何という表現の仕方。マジックハンドの使い方のこつが大分つかめてきた。車椅子から何とか床の物が拾える様になった。事故当時からみると格段の進歩。関西医大で理学療法の先生に、自分の首も支えられなかった頃、「そのうち車椅子から床の物が拾える様になりますよ。」といってくれたのを思い出した。当時はそんなことが出来るとはあの状態では思いもよらなかった。やはり、経験者の言う事は正しかった。パソコン通信も大体環境が揃った。

1996年 11月 1日 金曜日0:02 PM

今日一日のスケジュール。4:00頃、眠れず神々の指紋(上)を第8章まで読む。その後就寝。6:00導尿の為起こされる。体位を仰臥位にしてもらい、自己導尿。250ml飲水。最近は尿量200ml〜300ml程度に落ちついている。以後、朝食までパソコンと戯れ、出来ればNiftyServeにアクセス。8:00朝食。350ml飲水。終了後8:30導尿。体位変換。10:00250ml飲水。10:30導尿。この前後に清拭、便通の為テルミン坐薬挿入。調子良ければ、1時間一寸でかなりでる。運が悪いと、おむつより漏れることも。便通は2日に一回。清拭は入浴日を除いた毎日。12:00昼食。350ml飲水。それまでにパソコンの整理が大夫と進む。朝、昼食後ミニ折り鶴をキャラメルの包み紙でそれぞれ1個折る。13:00導尿。13:30より理学療法、5分程滑車にて上肢の挙上訓練をした後、主に背筋の筋肉トレーニング。時間があればスポ根物みたいに車椅子に重りを引かせてリハビリ体育館を4〜5周。仰臥位にて上肢の筋トレ。坐位にてプッシュアップ、起きあがりの練習。15:00頃より作業療法上肢の筋トレ。車椅子でのプッシュアップ。ベットに移る訓練の予備動作として下肢を持ち上げベットに乗せる訓練。ここ1週間で両下肢可能に。車椅子での靴の脱ぎ履きもここ数日で問題なくこなせるように。終了後病室へ。15:00の分の250mlの飲水。暇があれば売店まで病室に戻る前によって雑誌、本等購入する。勿論、リハビリには最初から小銭入れは持参。時間を気にするように、常に腕時計を着用している。薬は、カマグ0.5g、パンシロン?1包、ウロナミン2錠を食後1日3回。ここ数日は日常生活動作を出来る限りトライしている。今日は昼食後、靴下を履くのに挑戦。なんとか成功。17:00まで車椅子で病室で過ごす。17:00導尿。車椅子のままで。男性は女性と違い、尿道が長いのでズボン、パンツを全部おろさなくとも導尿が可能。18:00前にベットに5人掛かりで移してもらう。リハビリでは2人で移動可能になっているが、腰を痛めない為この人数になるよう。18:00夕食。この前後に母が漬け物、果物、夕食のおかず等を持ってくる。髭はシェーバーで数日毎に。18:00のニュースをテレビで観ながら食事を終える。歯磨き後、母と話して過ごす。19:55頃、「面会の時間が終了、、、速やかに、、、」とアナウンスがあるので、その前に母は帰宅。なんだか追い出されるようで聞きたくないとのこと。21:00の導尿までパソコン、通信、読書で過ごす。この前後でTELが鳴ることも。21:00導尿。22:00消灯。体位変換。気が向けば、22:00よりニュースステーションを観る。本日より、CNS1とNHK衛生劇場が2時間150円で観れるようになり、それぞれのTIME TABLEを一枚づつくれた。まるでホテルのテレビの様。12:00最後の導尿。飲水は一応18:00にて終了だが逐次補給している。導尿後体位変換。就寝、パソコン通信を始めた頃、夜があまりに遅いので看護婦にコンピューターを取り上げられてしまったのだった。体位変換は後2:00、4:00。以後朝に続く。

1996年 11月 3日 日曜日0:38 AM

昨日はしんどかった。朝の寝起きが悪く、14:00頃より母に連れられて病院の前のセブンイレブンに行って、雑誌、御菓子を少々購入。その後すぐベットに戻ったのだが18:00頃より悪寒が少々起きる。検温すると37.5℃。食後、再検すると37.9℃。頭部の氷冷にて様子をみていたら、突然、頭痛が出現。かなり強烈で思わず、看護婦コールしてボルタレン坐薬25mg挿入してもらう。約40分程で36℃台に解熱。頭痛は初発のみであれから再発は無し。0:00に再検したら、37℃。導尿もなんとか坐位で自己導尿可能。夕方に比べるとかなり気分も良い。この調子で何とか11/9〜10をのりきりたい。母は11/10で十分で11/21は止めておいた方が良い、と言う。パソコン通信もだいぶと解ってきた。最近、弟にMAILを出していない。また出さねば。昨日、セブンイレブンで買ったPENGUの御菓子のプラケースがミニ折り鶴を入れるのにgood!であった。どちらにしても朝の体調を気にすべきなのだろう。もう寝ることにする。無理を聞いてくれた看護婦に感謝。

1996年 11月 3日 日曜日7:32 PM

文化の日。朝より発熱、頭痛等の症状無し。大事をとって外出はせず。13:00より断水、停電。15:00には復旧したが、TEL不能。聞くと、21:00ぐらいまで不可とのこと。

1996年 11月 6日 水曜日4:00 PM

4日月曜日は大事をとって外出せず。5日火曜日はリハビリは多少しんどかったがなんとかこなす。理学療法にてプッシュアップにて側方へ移動する訓練開始。作業療法で靴を脱ぎ履きしてみせたら、「80%ですね。」とのお言葉を戴いた。握力測定。右32kg、左37kg大分よくなったが、やはり右の小指の力がやや入りにくい。体重測定。車椅子込みで86.8kg車椅子23.9kgよって体重63.1kg微増といった所。主治医より5日からバナン3錠食後日分でた。一応飲んだが、別になんともない。確かに尿排終了時にやや混濁が認められるようだが。弟よりMAILあり。早速午前中を使って返事を出す。パソコン通信は沢山のデータの中から必要な情報をいかにして効率よく取り出すか。福祉、医療、MACについて大分効率よくまとめられるようになった。

1996年 11月 6日 水曜日5:30 PM

主治医より左腕の負荷の許可を得た。明日より本格的なリハビリがやっと始まる。

1996年 11月 8日 金曜日6:20 AM

昨日より、やっと念願の両腕を使ったプッシュアップ開始。

1996年 11月 9日 土曜日6:01 AM

大阪行きの日。「神々の指紋」は下巻の途中まで読んだ。約束だからこうちゃんに進呈。11/9がやってきた。体調は悪くない。どんな一日になることやら。

1996年 11月 12日 火曜日1:30 AM

結婚式顛末記:11/9、8:30導尿後排便。10:30の導尿後着替え。荷物は礼服とウエストバックのみ。昼食後さっさと車椅子(通常タイプのため褥瘡予防マットの分足がすぐステップより落ちる)に乗せてもらい、病院玄関へ。福祉タクシーは13:00の予約の為、母のTODAYの助手席に乗れるかどうか。ドアを開け、検討してみる。腰の介助があれば可能と思われる。予定より早くタクシーは来た。タウンエースのリフト付き。乗り込みは頭をかがませないと天井に当たる。車椅子の固定は出来るが、肝心のシートベルトが無い。母はTODAYで後ろをついてくる。近道を使っているらしく。訳のわからん道を突っ走る。ものの30分で空港に到着。業者用?の駐車場でおろしてもらい、裏口より空港内へ。母は自家用車のため、一般駐車場に車を置くのに手間取った。搭乗手続きを済ますと係員の誘導でエレベーターで上まで。一番最初に乗せて貰う。飛行機のドアの前まで自前の車椅子で。シートがドア付近だったため、そのままかついでもらいシートまで。転院時に比べ。上肢の筋力がアップしており、今回は窓から外の景色を見る余裕があった。約1時間の飛行。伊丹では弟が出迎えてくれた。伊丹では同じくエレベーターで1階まで表ではホテルで予約して貰った福祉タクシーが待っていた。天井が高く頭がつっかえない。阪神高速池田線で約35分にてホテルへ。17:00過ぎチェックイン。部屋はトイレ洗面には車椅子が入れない。バルーンを留置してきたお陰で、入口から何とかシャワーのそばまでパックをのばして尿を流すことが出来た。早速ロビーに戻ると、新郎新婦にばったり会う。バレー部の連中は京橋の中華料理を予約しているという。集まったのは、6人。弟と一緒に出かけることに。私を含めた4人でタクシーへ残りは車で。タクシーは何とか二人で両脇を抱えて貰い、乗り込むことが出来た。OBPにて降車。階段を数段抱えて貰ってビル内へ。さて、中華料理屋につくと予約は無いという。調べて貰うと、京橋京阪ビルの中の支店に予約が入っているとのこと。京阪モールを京橋駅まで進む。京橋駅の手前だけ、階段を降りることに。3人に担がれ、なんとか通過。無事、中華料理屋へ。久しぶりの後輩との食事は楽しい。事故後初めてアルコールを口にした。ビールがうまい。食後、タクシーにてホテルへ。21:30頃ホテル着。部屋へ。弟にベットに移動させて貰う。2時間置きの体位交換をがんばってやってくれた。6:00には目が醒める。8:00まで弟を寝かせておく。起床後、1階まで朝食をとりに降りる。食後10:30までベットで休む。おむつを替えて貰い、歯磨き、礼服に着替えさせて貰ってヘヤーセット後、チェックアウトしたのが11:00頃。11:30より披露宴。披露宴は15:30まで続いた。二次会は地下2階とのこと。ところがこのホテルは地下2階は階段しかない。フロントに問い合わせると、従業員用のエレベーターで降ろしてくれた。16:40フロントに戻り、福祉タクシーを待つ。ホテルには障害者用の部屋が一つだけあるとのこと。弟は新幹線の時間の都合で、ここでお別れ。引き出物はとてもシンプルで、カップセットと洋菓子のみ。お陰で手荷物もかさばらずに済んだ。福祉タクシーのドライバーは空港の受け付けまで車椅子を押してくれた。あとはANAの係員が押してくれた。病棟へのお土産551の蓬莱豚まんまで買ってくれた。売店で雑誌を買い。飛行機へ。熊本空港では最後に降ろして貰った。福祉タクシーのドライバーは行きと同じ人だった。病院では母が待っていた。早速ベットに戻り母の用意した遅い夕食を平らげる。ベットに戻ると初めて下腿が腫れているのが分かった。コンピューター類は母が持って帰っていたのでその日はすぐ寝た。がうなされて目が醒めた。下腿の腫れは一晩で引いた。以外と疲労は感じなかった。

1996年 11月 16日 土曜日9:20 AM

昨日からベット移動の介助は看護婦一人だけにして貰っている。それで何とかベット移動可能になった。先週より言っていた、土曜日の作業療法を行う予定なのだが、果たしてちゃんと呼んでくれるのだろうか?11/14(木)兄が来た

1996年 11月 18日 月曜日4:11 PM

介助無しで車椅子ベット間の移動が出来た。まだ一寸不安があるが。今日は採血、検尿、CT、胸部2方向、左前腕2方向、肺活量測定(努力性肺活量2.36L)体重、63.5kgであった。背筋が予想以上に筋力が付いてきているようだ。病室での車椅子、ベット間の移動も大分、無難にこなせるように。この分だと、正月までに母の車の助手席に何とか乗れるかも知れない。問題は正月を何処で過ごすかだが。ベット上で靴下を脱ぐのも大分楽になった。母は「これだったら、徳島に帰っている間、自分で洗濯出来るな。」という。トライしてみる価値は在るかも。大阪での主治医に手紙を書かなければ。

1996年 11月 20日 水曜日10:10 AM

HyperRoadでインターネットにNetscape Navigator 2.02 で接続出来た。

1996年 11月 25日 月曜日1:18 AM

11/23(土)祝日。リハビリがあるものと勘違いしていた。朝より体調が良くなく、昼には筋肉痛、その内悪寒が出現。昼以降に母が来たときにはしっかり38℃を超えていた。夕食前には39℃を超え、坐薬挿入。尿は混濁していないようだが。食欲はしっかりあり、母の持参したステーキも全て平らげた。しっかり食って飲んだ後解熱。念のため、パンスポリン錠を3日分処方してもらう。排便が調子悪く、朝のテルミンでは出ず、再度昼より挿入後やっと夕方に何とか出た。11/24(日)朝より体調は良い。昨日の発熱は一体何だったのだろう。気がついたら夕食の時間で、大相撲を見逃した。九州場所は史上初の5つ巴戦。優勝は武蔵丸。そろそろマジで、お礼の手紙を大阪の主治医に書かなくては。同僚にも返事を書かなければ。写真も送ろう。

1996年 11月 27日 水曜日4:53 PM

11病棟に変わった。部屋は幾分か狭く感じる。ロッカーは前の倍の幅になった。ベランダが広く外に出やすいのだそうだが車椅子では無理みたい。今日の採血では白血球は正常。ここは水曜日が入浴日らしく月曜日に入りそこねたが取り戻せた。追伸を書いて手紙の封をする。ここ数日は一人でリハビリ後ベットに移動出来ている。車椅子に移るのも大分こつが解ってきた。

1996年 11月 30日 土曜日9:13 AM

昨日、とうとう褥瘡?が仙骨部に出来たようだ。表面はびらん様で周囲が発赤どうも褥瘡というよりは擦過創のようだが、念のためプッシュアップ等の仙骨部への侵襲となるリハビリは控えることになる。週明けにはどうなっているやら。「風来のシレン」は11回目にして「やさしい」でクリアこれは早いほうなのかな?久しぶりにゲームボーイポケットしている。キャスター付き家具が増えたお陰で自分で取れる物がぐんと増えた。テーブルタップが手が届くようになったので充電、ACアダブターの取り外しなどが自分一人で出来るようになった。食品にも自由に手が届く。これでテーブルの上に何もかも置かなくともよくなった。ここ数日は雨がよく降った。今日は朝は一応晴れているようだ。そろそろ母は徳島に帰らなければならないようだ。正月は本当にどうしよう。Duo2300cもそろそろ一杯になってきた。根本的な解決策を考えなければ。

1996年 12月 2日 月曜日4:45 PM

大阪の元職場の同僚が見舞いにきてくれた。千羽鶴を持ってきてくれた。一度DuoからFAXに挑戦してみよう。仙骨部の褥瘡?は治りつつある様子。今では右12kg,左6kg左前腕6kg両腕で計24kgの筋肉トレーニングになっている。作業療法士曰く「週二日程度持久力を付けるためにバトミントンでもしますか?」と。

1996年 12月 3日 火曜日11:42 AM

朝母が来ていろんな装備を置いてこれから徳島に戻るとのこと。ここのエアコンは風量が弱いらしく、天井は暖まるのだが、いかんせんベットサイドは17℃以下。日曜日は冷え込んでひどい目にあったが、母が扇風機を持ってきてくれた。(リモコン付き)これにより室温は一挙に24℃まで上昇。今年の冬はこれでなんとか過ごせそうだ。

1996年 12月 3日 火曜日5:49 PM

今日の夕方より、中枢性抗痙縮薬Gabalon5mg一日3錠分3食後が追加された。さてどんな感じになるやら。本日、Drの回診にて仙骨部はリハビリで出来た物だろうとのことユーパスタ当分使用予定。平行棒も穴がとうとう6個目になった。エキスパンダーは現在バネ3本だが、4本に挑戦し1回だけ成功した。作業療法にてバスケットボールのキャッチを始めたが、50回はさすがにしんどい。

1996年 12月 4日 水曜日10:33:51 PM

理学療法にて左が10kgの鉄亜鈴になった。身体の引き上げの運動を始めたが全然身体が浮き上がらない。エキスパンダーは3本のまま。4本は幻の一回になってしまった。

1996年 12月 7日 土曜日0:25 AM

エキスパンダー4本4回に成功。身体はまだ持ち上がらない。セブンイレブンまで一人で行く。正面玄関の坂に最初トライしたが失敗。右手の信号のある緩い坂で休み休みで何とか登り切る。信号から、セブンイレブンまでの歩道がくせ者だった。ゆるーい傾斜があるうえに、歩道が狭く。セメントの溝がなかなか車椅子には辛かった。セブンイレブンの駐車場も以外と傾斜が強く、ドアは結局自分で開けることが出来ず、店員が開けてくれた。帰りは正面玄関の坂をゆっくり下った。リハビリの後だと腕が上がらず結構辛い。

1996年 12月 7日 土曜日6:52 AM

久しぶりに夢を見た。詳細は記憶に無いが、夢の終わりに6桁の数字が出てきた。憶えようとしたら目が醒めた。今朝は結構寒い。母から連絡は無いが、無事かな?

1996年 12月 7日 土曜日1:30 PM

理学療法で使用しているゴム帯はセラバンドというらしい。赤、青、シルバー(グレイ?)の順に強くなる、日曜の自主訓練用にシルバーを1.5mを1本購入、930円。エキスパンダーの代わりに使う。

1996年 12月 8日 日曜日11:14 AM

「風来のシレン」の「むずかしい」はなかなかクリアー出来そうにない。フェイの問題はなかなかはまりそうだ。今日は10:30の導尿後自主リハビリを行う。午後から車椅子にのるかな?

1996年 12月 9日 月曜日6:46 AM

僕も変わらないといけないのか?いやだ。

1996年 12月 9日 月曜日10:36 AM

先程、大阪の友人よりTELあり。FAXは無事着いたとのこと。出来たら一度熊本まで旅行ついでに見舞いにいきたいとのこと。送ったFAXはこちらに郵送してくれたとのこと。今日は11時よりリハビリ。

1996年 12月 10日 火曜日10:41 PM

昨日今日と身体に力が入らない。Drより抗痙縮薬の変更を聞かされる。セブンイレブンに行く。行きの坂で親切な人が押してくれた。雑誌をありったけ購入。そろそろ年賀状の作成にかからないと。

1996年 12月 11日 水曜日8:42 AM

朝、徳島の母にTEL。明後日熊本に戻るとのこと。

1996年 12月 13日 金曜日4:27 PM

今日は金曜日なので薬剤師さんが薬を配りに来た。8病棟からのつき合いになる。ダントロレン(ダントリウム)が一日2錠(一錠25mg)になった。朝夕。末梢性抗痙縮薬。本日は15時より防火訓練。バスケットボールのキャッチボールは80回出来るように。この前、看護について色々と意見を言ったら、看護計画を立てているのでまってて欲しいとのこと。

1996年 12月 14日 土曜日6:22 PM

母は無事着いた様。先程TELある。風来のシレンの難しいをクリアする為、装備のパワーアップをはかる。今日はいまいちリハビリに根気が足らない。クリスマスイブまであと10日。セブンイレブンまで行く。今日も行きの坂を親切な人が押してくれた。昨日から車椅子の背もたれの上部を取り外している。やはり状態の安定性があまり良くない。でも一寸慣れたかな。

1996年 12月 20日 金曜日0:20 AM

仙骨部の治りは良くない。とうとう車椅子、ベット間の移動まで自力では禁止になってしまった。風来のシレンは難しいでフミちゃんを後6階までつれてきたが、地雷で死んでしまった。が装備は完璧。あらゆる特性も持った剣と盾が出来上がった。うでわも大分揃えた。ほぞんのつぼが5こ。何故か弓はきのゆみしかでない。弟は25日以降来るとのこと。宛名職人3.0で年賀状を作成。宛名書きは無事終了。裏面の印刷中に就寝時間がきてしまった。残りは明日。ただ、色が画面通りに出ない。何が問題なのだろうか。今日はセブンイレブンまで。UNOのプリペイドカードが使える。行きは正面の坂をまたもや親切な人が押してくれた。帰りは坂を下っている所を婦長さんに見られてしまった。「バターピーナッツを食べ過ぎる。」と母がいっぺんに食べられないようにと落花生を買ってきた。17日より、尿量、水分摂取量、気温、体温等のデータを取り始めた。なかなか調子は良い。

1996年 12月 20日 金曜日9:00 PM

MDを買うことに決めた。CDの編集の為。今日は長岡長次郎一座の講演の為リハビリは14:00にて終了。食事も何故か、16:40に配膳される。鉄亜鈴もとうとう6kgを買った。今日も色々セブンイレブンで本を買ってしまった。これで正月は困らないかも。年賀状も出来上がった。

1996年 12月 21日 土曜日11:32 AM

朝の体位交換後、目が醒めたら11:10。10:00の飲水PASS、10:30 の導尿は11:20に。勿論、リハビリは中止。急いで導尿してリハビリ行こうかと思ったら、「じゃ、やめときましょうか?」だと。痙性は全然変化無いが、どうも眠い。月曜日に持って行かれた僕の導尿チューブはまだ来ない。月曜日のガス滅菌に間に合わず、水曜日出しに。今日は土曜日だが、朝からもう2回聞いているが、「私は知らない、きいときます。」の返事のみ。月曜日は天皇誕生日だから今週中には来そうもない。さっき返事が来た。「昼過ぎにあがってくる」とのこと。どうだか。

1996年 12月 21日 土曜日1:12 PM

ペルーの日本大使館がテロに占拠されてから三日目。「風来のシレン」は案の定”もっとむずかしい”があった。

1996年 12月 23日 月曜日10:27 PM

看護婦によると、どうも毎晩のようにうなされているらしい。うーん。昨日、今日となんとはなしに一日が過ぎていく。導尿チューブは土曜日の午後無事届いた。

1996年 12月 24日 火曜日9:29 PM

夕食後、弟よりTELあり。色々、取りそろえたとのこと正月はプレステをしようとゆうことに。久しぶりに色々話して電話を切った。セブンイレブンで買ったゴム着き手袋は結構いける。起きあがりの訓練時手が滑らない。今日はクリスマスイブ。弟は明日船に乗りこっちに来る。やっとこの病棟でパンツを履かせてもらった。明日は入浴日。今日のリハビリは正直あまり、力が入らなかった。どうも眠い。明日はどうだか。明日はセブンイレブンで買い物をしよう。今日の夕食はケーキ?の様な物が出た。一応クリスマスケーキらしい。正月はでデジカメ三昧しよう。

1996年 12月 25日 水曜日3:16 PM

入浴が手違いで朝一番に。お陰で朝からすっきり。何故か今日は明らかに痙性が減弱している。入浴のせいか?今日は何とか正面の坂をほぼ4/5程度登り切った。セブンイレブンでお供え餅を買う。弟より昼食後TELあり。物は昨日の夜宅急便で送ったとのこと。作業療法ではキャッチボール100回大分早く出来た。理学療法では起きあがり動作のこつが少しずつ掴めてきた。クリスマスの為か、餅が一個出た。ベットダウンしていてライトのスイッチを引きちぎってしまった。

1996年 12月 26日 木曜日9:31 PM

弟は無事着いた。夕方に色々持ってきた。チェックした雑誌に付箋を貼って渡す。褥瘡は治ってきているとのこと。今日はMD聞きながら寝ることにする。充電電池もきた。ACアダブターを外せるだけはずす。ライトのスイッチは直っていない。明日直らなければ正月いっぱいこのままか?

1996年 12月 28日 土曜日0:01 AM

本日は大掃除。リハビリも15:00にて終了。12/29,30,1/2,3と午前中だけリハビリはある様子。ライトのスイッチは直っていない。お陰で夜にゲームボーイが出来ない。やはり正月はお先真っ暗か?明日はプレステでもするか。水と尿の字が僕の字では判別しづらいとのこと。色分けすることに。金曜日なので薬が支給。正月のため2週間分出た。痙性はやはり減弱している。

1996年 12月 28日 土曜日3:18 PM

病院は今日で仕事納め。弟がプレステを持ってきたが、病院のTVはビデオ入力不可でプレイ不可能。Dr回診。ライトのスイッチは直った。

1996年 12月 29日 日曜日3:59 AM

昨日はPanasonicの新しいCD-WALKMANでMDにダビング。光端子でシンクロしておりとても楽。夜中発汗多し。

1996年 12月 30日 月曜日8:51 AM

初めてインターネットからE-mailが着いた。早速返事を送る。昨日はリハビリはなかった。今日、明日は自主トレが午前ある。昨日は弟に連れられて明倫堂まで行った。行きはいつものルートで帰りは本屋のそばの信号より看護婦曰く「どぶ川」沿いに。アップダウンはあるが道は随分平坦。やはり国道沿いの道は歩道がむちゃくちゃ。本は結局1万円近く買い物してしまった。あまり外出するのも考え物。今日は久しぶりに家族で食事。兄は17:00頃到着するらしい。

1996年 12月 30日 月曜日8:53 PM

ホテルで兄夫婦と家族とで夕食。久しぶりに中華料理を食べる。アルコールは食前酒のみ。兄の泊まる部屋は広く車椅子も楽に入れてなかなか広かった。弟が買ってきてくれたC-400Lを早速使用。ファインモードではなかなか使える。転送時間が確かに遅いが、PCCARDが使えないDUOではこれ以上望んでもしょうがない。ノーマルモードで80枚撮れる。ノーマルで明日は手当たり次第に撮ってみよう。兄のファミリアでも後部座席にちゃんと座ることが可能であった。なんとか自分一人で乗り込めるように早くならなくては。正月はデジカメ三昧。ふっふっふっ。

1996年 12月 31日 火曜日6:12 AM

夢を見た。TVの見過ぎで寝不足だったためか?今日も自主トレ。色々撮りたい。今日は病院の散策。

1996年 12月 31日 火曜日11:51 PM

あと10分で今年もおしまい。いろんな事があった一年だった。今年は母の作った年越しそばを食べた。やっぱりお銚子一本は付かなかった。弟と母は熊本で正月を迎えることに。さよなら1996年。新しい年は新しいファイルで始めよう。因みに元旦は朝食は10:00一日二食らしい。要するに朝寝坊してもよいとのこと。デジカメで何枚か撮影した。そろそろ今年最後の導尿が始まる。

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2002/07/27(Sat)作成

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